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気功(きこう)
気功(きこう)は、中国古来のものとされる健康法の一。
体操と呼吸法とイメージ・トレーニングとを併せたような内気功と、その応用として超能力的な外気功とに大別される。
さらに、外気功を二つに分け、美容や治療を含めた健康面に関する気功を軟気功、護身術など相手を倒したりするものを硬気功と分類する場合もある。

気功という言葉自体は1970年代から用いられたものだと言われ、中国語文化圏ではヨーガなども含めた類似のものの総称として用いられることもある。


気功において気は、熱、圧力、びりびりした感覚として認知され、その気感を高めたり、気の動きを自分の意思でコントロールすることが気功である。 気功では、身体の気の流れを良くすることにより元気になると考えられている。また、自然界の気をもらい、自分や他者へ送るといったことも行われる。

気とは
気とは中国伝統思想において、肉眼では見えない物質、力をひとまとめにした概念である。例えば現代の日本語にも、「元気」とか「根気」と言ったような精神的なもの、「電気」や「磁気」といったエネルギー、「空気」のような気体を表すときに「気」いう語がつかわれる。これらはある程度科学の知識がある現代人から見たら別のものであるが、近代以前の顕微鏡も無く、エネルギーや素粒子といった概念も無かった時代に、存在はする筈だが目で見ることが出来ないという特徴から気と総称された。

気功とオカルト・疑似科学
気功は現代科学成立以前の中国伝統思想の理論を元に成立している。本来なら科学を装った疑似科学では無いし、オカルトでも無い。 しかし、「気とは現代科学では解明できない精神エネルギーである」「気功による治療でどんな難病でも治る」などと疑似科学的・オカルト的主張する人たちがいる。これらは本来の気功とは別のものと考えたほうがよい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 14:14
漢方医学(かんぽういがく)
漢方(かんぽう)、漢方医学(かんぽういがく)とは 伝統中国医学の系譜で、日本で独自に発達した伝統医学の総称。現在は漢方薬による治療のみを指すことが多いが、元来は鍼灸や按摩、食養生なども含む。
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漢方という語は江戸時代にヨーロッパの医学(蘭方医学)が伝わり始めた頃に、そちらと区別するために使われるようになった。

診察法
症状を含めたその患者の状態を証と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、現病歴を聞き腹診等を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。

証の分類と治療法の選択について様々な理論化がなされたが、例えば気血水理論では、人間の体の中を巡っている「気」(仮想的な「生命エネルギー」のようなもの)、「血」(西洋の医学の血液ではない)、「水」(同じく西洋医学のリンパ液ではない)の流れをバランスよく滞りない状態にするのが狙いになる。また、陰陽五行説も用いられた。

漢方が用い得た方法論的な限界によるものだが、臨床検査データに頼りがちな現在の医療に対してある程度補完的な役割を果たしている。また、患者を医師の五感でよく観察すべし、という診察の心得はあらゆる医師にとって初心である。

具体的な処方
漢方薬


薬膳
気功
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漢方医学の歴史
前漢(紀元前202年〜紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年〜220年)の時代に張仲景により『傷寒論』『金匱要略』が編纂される。例えば傷寒論はインフルエンザ等の急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じた。伝統中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。

金・元時代(960年〜1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。黄帝内経の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。

また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。

日本には朝鮮半島を通じて、あるいは遣隋使・遣唐使によって中国から伝えられた。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。

明治以降は西洋医学を学び医師免許をとらなければ医師と名乗ることが出来なくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない。ここに至り遂に 漢方は壊滅の危機に瀕したが、1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。1950年には日本東洋医学学会が発足。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 14:04
カオス(Χάος)
カオス(Χάος)とは、ギリシア神話に登場する原初神である。
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この世が始まったとき最初に無の空間に誕生した神で、混沌を神格化したもの。一人でガイア(大地)、タルタロス(暗黒)、エロス(愛)、エレボス(暗黒)、ニュクス(夜)といった神々を生んだ。
カオスと同時にガイアとタルタロスが生まれたという説もある。

また、混沌、無秩序を意味するカオスは、コンピュータの発達により「決定論的システムが作り出す予想不能のふるまい」として認知され、 数学、物理学、化学、経済学など、全ての学問体系に影響を及ぼしている。

原義は大きく開いた口、空っぽな空間の事だったらしい。

タルタロス(奈落)
タルタロス (Τάρταρος)はギリシア神話の神。奈落の神、かつ奈落そのもの。

神統記に拠れば、カオス、ガイア、エロスとともに生まれた、原初の神の一人である。女神ガイアとの間にテュポンという息子がいる。アポロドロスに拠ればエキドナも彼とガイアの娘である。

冥府ハデスのさらに下方に有る。天と地の間の距離と同じだけ、大地からさらに低いところにある(その距離というのは、具体的には、上端から下端へ真鍮の金敷きを九昼夜落とし続けて十日目に下端につく距離)。

霧たちこめ、神々ですら忌み嫌う淀んだ空間。ポセイドンが青銅の門を作り、その周りは青銅の壁で覆われているため、何者も逃げおおすことはできない。仮に人間がこの門の中に入ったとしたら、一年がかりでも底にたどり着けない。かえって、神々が怖れるほどの苛烈な暴風で吹き飛ばされてしまう。

はじめ、ウラノスやクロノスがヘカトンケイル族やキュクロプス族を幽閉するのに使い、カンペーに番人をさせていた。のち、ゼウス達が彼らを解放しティタン族を打ち倒すと、ティタン族が幽閉される番となり、ヘカトンケイル族がその牢番となった。他にテュポーンもここに投じられたと言われている。

後世、たとえばプラトンなどではただの地獄として扱われるようになった。

エレボス(暗黒)
エレボス(’Έρεβος)とは、ギリシア神話に登場する神。 原初の幽冥を神格化したもの。

また、地下の暗黒の神でもあり、しばしばタルタロスと混同される。

ニュクスの兄弟にして夫で、彼女との間にヘメラとアイテルをもうける。

ニュクスとヘメラが昼と夜の表裏一体であるように、エレボスと息子のアイテルも、地下の暗黒と上天の光明という表裏一体をなす。

ニュクス(Νύξ)
ニュクス(Νύξ)とは、ギリシア神話に登場する夜の女神。

カオスの娘で、エレボスの姉妹にして妻。エレボスとの間にヘメラとアイテルをもうける。 また、一人でヒュプノス、タナトス、エリスなどの多くの神々を産んだ。

娘のヘメラ(昼)とは表裏一体をなす存在で、世界の西の果ての地下に館を共有している。ニュクスが世界を巡って夜をもたらしている間はヘメラがここに待機し、ヘメラが世界を巡って昼をもたらしている間はニュクスがここに待機している為、二人が共に館にいるのは、昼と夜の境目の一瞬だけである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 13:50
ガリア戦記
ガリア戦記は、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が自らの手で書き記したガリア戦争の遠征記録。
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指揮官カエサル自らが書いた本書は、簡潔、明晰かつ洗練された文体で文筆家カエサルの名を不朽のものとした。
また文中の所々にガリア人・ゲルマン人の風俗についての記述があり、研究上の重要な史料と位置付けられている。 更に、東洋とは違い欧米の政治家・軍人には回顧録等を書く者が多いが、その最初がカエサルによるこの書であると思われる。

紀元前58年から同51年にかけて8年間にわたるガリア遠征について記述した本書は全8巻から成る。

第1巻(紀元前58年)
ヘルヴェティ族との戦争、ゲルマン人との戦争
第2巻(紀元前57年)
ガリア北東部(ベルガエ人たちの居住地)への遠征
第3巻(紀元前56年)
大西洋岸諸部族との戦争
第4巻(紀元前55年)
ゲルマニア(現ドイツ)遠征、ブリタニア(現イギリス)第1回遠征
第5巻(紀元前54年)
ブリタニア第2回遠征、ガリア遠征初の大敗
第6巻(紀元前53年)
ゲルマニア第2回遠征
第7巻(紀元前52年)
ガリア人大反攻、アレシア攻防戦
第8巻(紀元前51年)
戦後処理、本巻はヒルティウスの著

参考文献
カエサル『ガリア戦記』岩波文庫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 12:05
ガイウス・ユリウス・カエサル
ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar, 紀元前100年7月13日 - 紀元前44年3月15日)は、古代ローマ(共和政ローマ)の政治家で軍事的指導者。また文筆家としても有名。呼び名に関しては英語読みでジュリアス・シーザー(Julius Caesar)と呼ばれ、シェークスピアによる同名の戯曲がある。またドイツ語にならいツェーザーと読まれることもある。
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ドイツのローマ法学者であるテオドール・モムゼンには、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と称された。

カエサルを描いた作品
『ローマ皇帝伝』(上) (スエトニウス)
『プルターク英雄伝』(プルタルコス)
『ジュリアス・シーザー』(ウィリアム・シェイクスピア)
『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル ルビコン以前』(塩野七生)
『ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後』(塩野七生)
映画
ジュリアス・シーザー(1953年 原作:ウィリアム・シェイクスピア 監督:ジョセフ・L・マンキーウィッツ)
ジュリアス・シーザー(1969年 原作:ウィリアム・シェイクスピア 監督:スチュアート・バージ)

評価
文筆家としてのカエサルは、キケロとともにラテン文学の散文においては双璧をなしている。特に『ガリア戦記』の簡潔な文体は高く評価されている。
軍人としてのカエサルも王制、共和制、帝政を通じて古代ローマ最高かそれに次ぐ才能と手腕の持ち主とされている。
政治家のカエサルに対しては実質ローマ共和国を滅ぼし、帝政へと導いたことから批判する人も少なくない。もっとも、カエサルの生きた共和制最末期のローマにおいては、すでに一部の有力者により元老院の指導体制は崩壊しており、カエサルはいわばその死水を取ったに過ぎないという人も多い。独裁制を反対する人々からはその象徴として嫌われることもあるが、イタリアの生んだ最高の政治家とも言われる。ほぼ間違いなく、ナポレオン・ボナパルトやオリバー・クロムウェルといった独裁者達に影響を与えたと思われるが、現在のいわゆる西洋をローマの版図に組み込んだのはカエサルであることから西洋全体がカエサルの影響を受けているという言い方もできるかもしれない。

主な著作
ガリア戦記
内乱記
反カトー論

生い立ち~政治キャリアのスタート
古代ローマの古くからの名門貴族(パトリキ)であるユリウス氏族に属するカエサル家の子としてローマに生まれる。父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル、母は、アウレリア。父の妹ユリアがガイウス・マリウスに嫁いでいたため幼少の頃より民衆派(ポプラレス)と目されていた。紀元前84年に有力な民衆派のルキウス・コルネリウス・キンナの娘であったコルネリア (Cornelia) と結婚。マリウスやキンナの政敵であるルキウス・コルネリウス・スッラが独裁官になると、スッラはカエサルとコルネリアとの離婚を命じたが、カエサルは従わず、紀元前81年ローマから逃走した。スッラが紀元前78年に逝去すると、ローマに帰還した。コルネリアは紀元前68年に逝去し、その後はスッラの孫であるポンペイア(Pompeia)と結婚した。ポンペイアは裕福だったため、カエサルはその財産を買収や陰謀に使い、政治的なキャリアを積み重ねていった。紀元前65年には高級按察官(aedilis curulis)に就任。紀元前63年には最高神祇官 (pontifex maximus) に就任。紀元前62年には法務官(praetor)に就任した。また、カエサルには多くの愛人がいたが(カエサルには「ハゲの女たらし」という異名がある)、ポンペイアが女装した情夫を引き入れたというスキャンダルの発覚した際には、自らは女装して侵入したクロディウスの弁護を行ないながらも紀元前62年に妻と離婚した。

三頭政治
紀元前60年、執政官をめざすカエサルは、オリエントを平定し凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級(経済界)を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに三頭政治が結成される。民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。

ローマの内乱
カエサルがガリアに遠征していた紀元前53年、三頭政治の一角であるクラッススがパルティア王国攻略中に戦死した。これにより、三頭政治は崩壊し、元老院派に取り込まれたポンペイウスとカエサルとの対立が顕在化する。
紀元前49年カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる元老院最終勧告が発布される。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目にして、軍隊の進入を禁じられていた首都へ軍を向け国家を内乱へと導く。ローマ国境のルビコン川を渡る際、彼は有名な言葉「alea iacta est(賽は投げられた)」を残している。

ルビコン川を越えたカエサルの行動は迅速だった。即日リミニ入城、アドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指した。対するポンペイウスはローマにあったため即時の軍団編成を行なえず、ローマおよびイタリア半島を放棄し自身の勢力地盤であったギリシアに離脱、軍備の再編成を行なった。これによりカエサルはローマの実質的な支配権を手中にした。

その後、スペインにいるポンペイウス派の将軍を倒し、ローマにもどったカエサルは2回目の執政官当選を果し、万全の体制でギリシアのポンペイウスを追撃する。緒戦のドゥラキウムの戦いでは撤退の憂き目にあったものの、ファルサルスの会戦で圧勝。ポンペイウスは逃亡先のアレクサンドリアで殺害される。

終身独裁官~暗殺
紀元前46年、北アフリカにてポンペイウス軍の残党を討ち果し(タプトスの会戦)、その支配権を確固としたカエサルはローマ共和国の改革に着手する。属州民に議席を与えることで元老院への権力集中を防ぎ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化を図り、さらに自らが終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで、統治能力の強化を図ったのである。この権力集中のシステムは元首として、後継者のアウグストゥスに引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎となった。
カエサルへの権力集中に対し危機感を抱いたブルートゥス、カシウスらにより、紀元前44年3月15日カエサルは元老院が開催されていたポンペイウス劇場に隣接する広場にて暗殺された。遺言にて養子のガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)が後継者に指名された。

ブルートゥスに暗殺された際に残した「tu quoque, Brute(ブルータス、お前もか)」という言葉は有名だが、これは後世イギリスのシェークスピア創作の『ジュリアス・シーザー』の台詞であり、スエトニウスでは「我が子よ、お前もか」とされているが、実際には言っていないともいわれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 11:50
教養(きょうよう)
教養(きょうよう)とは、一般には一人前の人間が当然持っているべきと考えられる一定レベルの知識(常識)よりもやや上級の知識を備えており、かつ、その知識が品位や人格およびものごとに対する理解力・創造力に結びついている状態を指す。またはそれらを身につけるための、学問や芸術および精神修養などの文化的活動のことを指す。
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伝統的に西欧の大学で扱われていたリベラル・アーツに相当するものとしても捉えられる。

「常識のない人間」や「品位や人格に問題のある人間」は社会的に非難を受けることがあるが、教養がないからといって非難されることはない。「教養ある人間」は相応の尊敬を得るが、単に知識が豊富なだけで人間的な魅力に乏しければあまり尊敬はされないものである。

ギリシア語ではパイディアであり、意味は「子どもが教育係に指導されて身についたもの」のこと。英語ではcultureで「粗野な状態から耕された、人の手を経たもの」、ドイツ語ではBildungであって「つくられたもの」のこと。それぞれに教養の捉え方に対する文化的な温度差がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 11:40
はてしない物語
『はてしない物語』(-ものがたり、Die unendliche Geschichte)は、ドイツの作家、ミヒャエル・エンデによるファンタジー児童文学である。英語版の題はThe Neverending Story。
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概要
いじめられっこのバスチアン(Bastian)少年が、『はてしない物語』という本の中の世界、ファンタージエンに呼ばれてその世界の崩壊を救い、本当の自分を探す物語。

本の中に登場する『はてしない物語』と同じく、実際のハードカバーでの装丁はあかがね色で、蛇がお互いの尻尾をくわえたアウリンの模様がある。さらに、文字もあかがね色と緑色に刷り分けられている。

映画化され、「ネバーエンディング・ストーリー」というシリーズになったが、シリーズ第1作のラストは、原作者のミヒャエル・エンデの意図に沿わないものであった。彼はこれを嫌い訴訟までおこした。また、2作目以降は原作のストーリーとはほとんど関係ないストーリーになっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 11:31
物語(ものがたり)
物語(ものがたり)とは、語り手が語られる主体に、順序だてて語るさまざまな出来事のこと。ナラティブ(英 narrative)、ストーリーとも言われる。虚構作品だけではなく、歴史や新聞記事の中にも見られる。
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物語論
文学理論の物語論の観点からは、筋としてまとめられる言説のことをひろく物語ととらえる。「物語言説」「物語内容」「語り」などの視点から研究される。

プロット
プロットとは、小説、戯曲、映画、漫画等の創作物における枠組み、構成のこと。 ストーリーと区別される。

文芸評論では、物語の中で起きている出来事が時間に沿って並べられたものがストーリーであるのに対して、その出来事を再構成したものをプロットと呼ぶ。プロットは時間軸に沿っているとは限らないが、出来事の因果関係を示している。例えば「妻が重い病気になった。夫は毎日泣き暮らすようになった」はストーリー、「夫は毎日泣き暮らすようになった。理由がわからなかったが、妻が重い病気になったからだとわかった」はプロットである、などと説明されることが多い。

プロットとストーリーについては、イギリスの作家E・M・フォースターが1927年に発表した『小説の諸相』での解説が有名である。

元々は、単に筋に関連する出来事がひとつの形を形成したもののことをプロットと呼んだ。アリストテレスが『詩学』で既に「始め・中・終り」の3つに区分するという基本的なプロットについて述べている。この基本的な意味でのプロットという用語は、現代でも小説などの創作の現場でよく使われ、物語を作るときの設計図・構想のことを指す。物語のあらすじ、登場人物の設定や相関図、事件、小道具、世界観などがプロットに含まれる。特にエンターテイメントや長編小説などの構成力を必要とする創作では、プロットを練ることが不可欠であると考えられている。

ストーリー
ストーリーとは、小説、戯曲、映画、漫画等の創作物における筋のこと。 プロットと区別される。ストーリーを簡潔にまとめたものを梗概とも呼ぶ。

物語世界の中で起きている出来事が時間に沿って並べられたものがストーリーであるが、小説などの創作物の作者は、出来事の順序を入れ替えるなどして再構成する。そのため物語世界で順番に起きた出来事が、小説などの中で同じ順番で読者に提示されているとは限らない。推理小説で本当は最初に行われている犯罪のトリックが、再構成されて最後に明かされるのが良い例である。または、「妻が重い病気になった。夫は毎日泣き暮らすようになった」はストーリー、「夫は毎日泣き暮らすようになった。理由がわからなかったが、妻が重い病気になったからだとわかった」はプロットである、などと説明されることが多い。

多くの物語には典型的なストーリーの雛形があり、創作の指標、あるいは研究対象になる。

歴史
日本文学と物語
日記文学や随筆、場合によっては私小説などを含む自照的なもの以外の、他人に向かって語られる作品のことを物語と定義することもある。叙事的な内容のものを指すことが多い。

狭義には『竹取物語』にはじまり鎌倉時代の擬古物語に至る古典の物語文学のことを指す。『伊勢物語』『平中物語』『宇津保物語』『落窪物語』『源氏物語』『栄華物語』『浜松中納言物語』『狭衣物語』『とりかへばや物語』などが挙げられる。

さらに広く、後の軍記物語や説話物語まで含めることもある。『雨月物語』などの戯作までを指すこともできる。また、『お伽草子』などに含まれるおとぎ話や説話、昔話、民話などを漠然と指して物語と呼ぶこともある。

これらの定義にあてはまらないが、たとえば『はてしない物語』のように近現代の作品であっても物語という語をタイトルに含むものは多い。

現存する最古の物語は、古代オリエントの『ギルガメッシュ叙事詩』だと言われている。最長のものは、古代インドの『マハーバーラタ』である。

日本文学においては『竹取物語』が仮名で書かれた最初のいわゆる「物語」であり、紫式部はこれを「物語の出で来始めの祖」と評した。
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# by dcb0322 | 2005-09-18 11:28
栄養ドリンク
栄養ドリンク(えいようどりんく)とは、肉体疲労時の栄養補給などを目的で販売されている飲料、ドリンク剤である。
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ビタミン類、カフェイン、朝鮮人参、漢方薬由来成分のエキスなど、およそ疲労回復や健康維持に効果が期待できる成分の全てが処方されている。

含有成分によって

医薬品
医薬部外品
清涼飲料水
に分けられる。

位置付けとしては、機能性飲料よりも直接的であるが、薬未満と言えよう。

オロナミンCなど、従来より一般の小売店で売られていたカフェインを含まないドリンク類は、清涼飲料水扱いされる。

外見
外見は茶色、もしくは緑色のガラス瓶にスクリューキャップの栓というものが一般的である。内容量は概ね100ml未満である。

ときおり容量のアップや形状を工夫するなど差別化を図る意欲的な新製品も現れるが、愛用者はことに保守的なデザインを好む傾向が強いらしく、成功には至っていないようである。

販売価格
価格は、1本100円程度から3,000円以上のものまであるが、ドラッグストアやスーパーマーケットなどのセールの目玉商品として、主に医薬部外品扱いのものが10本で500円程度からといった手頃な価格で売られているものもある。

服用上の注意
栄養成分の多いものは医薬品として、長らく薬局やドラッグストアの店頭でのみ販売が行われていたが、2001年頃の規制緩和より、主力商品が医薬部外品に変更されてコンビニエンスストアやスーパーマーケットなどでも販売されるようになった。ただし、栄養ドリンクといえども成分中には、多量の摂取が好ましくないカフェイン(コーヒーの10倍以上の濃度)などが含まれており、服用には注意が必要である。少なくとも乳幼児の服用や1日に何本も飲むことは避けた方が無難である。

主な栄養ドリンクの種類
リポビタンDシリーズ、ゼナシリーズ、アルフェシリーズ(大正製薬)
ユンケルシリーズ(佐藤製薬)
ハイゼリーシリーズ(ゼリア新薬工業)
ビルトンシリーズ(中外医薬生産)
レッドブル
マキシモルソリューションズ
チオビタシリーズ (大鵬薬品工業)
エスカップ(エスエス製薬)
リゲインシリーズ (三共)
アリナミンドリンクシリーズ (武田薬品工業)
グロンサン、新グロモント (中外製薬→ライオン)
アスパラシリーズ (田辺製薬)
ベッセンシリーズ (JTライフィックス→日本医薬品工業)
ローヤルスターシリーズ (JTライフィックス)
チョコラBBドリンクシリーズ (エーザイ)
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# by dcb0322 | 2005-09-18 11:17
ビジネスマン(英:Businessman)
ビジネスマン(英:Businessman)とは、英語の原義では実業家・若しくは企業内の地位が高く事業に於いての決定権を持つ人(重役)を指すが、日本では特に営業を主とする交渉ごとに関わる会社員を指してもこう呼ぶ。古くは同じ立場にある人を指して営業マン(えいぎょう - まん)・また商社に務めている人は商社マン(しょうしゃ - まん)とも呼んだ。

なお注意すべきは、同じ立場にある女性の場合に“Businesswoman”(ビジネスウーマン)という呼称が用いられるが、海外では米語スラングで街頭の売春婦をこう呼ぶケースがある他、性別を強調している事から性差別と取られかねないとされる。性差を含まない呼称としては、“Business person”や“Business people”というものがある。

概要
日本における同語の扱いは、ホワイトカラー労働者のうち、事務や経理といったデスクワーク中心の業務を行わない、商業取引の場で活躍する人を指す。特に1970年代以降、日本の商社マン(商社の外部交渉を行うサラリーマン)は世界中の企業・国家・団体を相手に商取引に奔走し、またその労働によって得られる対価も一般のホワイトカラー労働者と比較して、高額となる傾向が強い事から、一種の羨望を込めてこう呼ばれる。

経緯
明治時代以降、資源の乏しい日本にあっては、これら商社マンの調達した原料を日本国内で労働者が加工・製品とし、これを商社マンが海外で販売してくる事で今日の経済的な発達があったという事もあり、商社に勤めるサラリーマンは一般の労働者から尊敬され、また商社マンも日本経済を支えているという自負から、全身全霊で仕事に打ち込んでいた。

これら商社マンは時に数億円という単位の、大衆には想像を越える大金に関わることも在って、大きな尊敬を集めていたため、次第に「商社マン」という呼称と並行して、尊敬の念から1980年代頃より「ビジネスマン」という呼称が用いられだした。また次第に、企業間の(巨額な)契約を取りまとめる営業職にある人もビジネスマンと呼ぶ(または自称する)ようになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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# by dcb0322 | 2005-09-18 10:46
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