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2005年 09月 26日 ( 7 )
柏餅(かしわもち)
柏餅(かしわもち)は、平たい丸型に丸めた新粉の餅を二つに折り、間に餡をはさんでカシワ又はサルトリイバラの葉などで包んだ和菓子である。
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柏餅(葉はカシワではない)5月5日の端午の節句の供物として用いられる。カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、子孫繁栄(家系が途切れない)という縁起をかついだものとされる。

また、節句行事は古くからの神事でもあり、子孫繁栄を願って打つ柏手など神事に由来したものが多い。この柏手は子供の手が柏の葉に似ているからとも言われている。

尚、大和奈良時代に於いて膳(かしわで)氏と呼ばれる一族が節句神事を執り行っていた。神職の家紋や餅など縁起を担ぐ様々なところで柏が多いのもこの為と言われている。

柏餅にこのような来歴はあるが、カシワの葉が手に入りにくい時代があったため、四国地方などではサルトリイバラの葉で作られている。また他の葉を使用する場合もある。

関連するお菓子
桜餅(さくらもち)
桜餅(さくらもち)は和菓子の一つ。
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濾し餡を桃色に着色した生地で包み塩漬けした桜の葉を巻いたもの。 関東では小麦粉の焼皮を生地に使いクレープ状に巻いた物であり、関西では道明寺粉を蒸かして作ったつぶのある餅で饅頭のように包んだ物である。関東地方では関西風の桜餅を特に道明寺と呼ぶ。

由来
関東風の桜餅は江戸時代八代将軍徳川吉宗が隅田川に桜を植えたところ、その葉を使い向島長命寺の門番山本新六が桜餅を作リ、売られたものが最初である。

桜の葉
葉がやわらかく毛が少ない大島桜の葉を塩漬けにして使う。主に伊豆半島の松崎町で生産されている(全国シェア70%ほど)。また最近ではビニール製のもので代用されることも多い。関東では大きめなものを好み、関西では小さめなものを好む。関西風の桜餅では葉を取らずに中の餅と一緒に食べてしまうことが多い。

よもぎ餅
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ソワン博士の超おススメ(京都市中京区本能寺前、八方焼本舗 小松屋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 19:30
きんつば(金鍔)
きんつば(金鍔)は、金鍔焼きの略称で、和菓子のひとつ。

小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、円く平らな円盤型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたもの。
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角型(直方体状)をしている「角きんつば」は、明治時代に考案されたもので、寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる。

サツマイモでつくった芋餡を包んだもの、もしくは四角く切った芋ようかんの各面に生地を付けて焼いたものは「薩摩きんつば」と呼ばれる。

もともとは江戸時代中期に京都で考案された菓子で、上新粉(米粉)で作った生地で餡を包んで同様に焼いたもので、その形状と色から「ぎんつば(銀鍔)」と呼ばれていた。

製法が京都から江戸に伝わると、「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由から、材料が小麦粉に、また名前が「きんつば」に変わったとされる。
ソワン博士の超おススメ(京都市中京区本能寺前、八方焼本舗 小松屋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 19:18
抹茶(まっちゃ)
抹茶(まっちゃ)は緑茶の一種。

茶道で用いられるほか、和菓子、かき氷、アイスクリーム、料理の素材などとして広く用いられる。
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製法
原料となるのは碾茶(てんちゃ)。 碾茶に用いる茶は煎茶に用いるものとは異なり、葭簀(よしず)と藁(わら)を用いて直射日光を遮り「簀下十日、藁下十日」被覆栽培する(玉露と同様の栽培法)。これにより茶葉は薄くなり、うまみやコクも増す。 収穫は1年に一度。若葉をていねいに手で摘む。 手摘みした茶葉はその日のうちに蒸した後、揉捻(じゅうねん)を行わずに乾燥させる。もまないところが煎茶や玉露との大きな相違点である。

この碾茶を刻み、葉柄、葉脈などを取り除いて真の葉の部分だけにし、温度変化の少ない石臼(茶臼)を用いて粉末にする。

歴史
喫茶の風習は元々中国の唐代から宋代にかけて発展したものである。 8世紀頃、中国の陸羽が著した『茶経』(ちゃきょう)には茶の効能や用法が詳しく記されている。

日本には平安時代初期に薬用としての煎じて飲む茶が伝えられたが、抹茶としての飲み方が伝わったのは鎌倉時代とされる。 日本における臨済宗の開祖となる栄西禅師が1191年中国から帰国の折に茶種と作法を持ち帰り、その飲み方などが日本に広まった。(詳しくは茶道の項を参照のこと)

栄西の『喫茶養生記』には茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれている。建保2年(1214年)には源実朝に「茶徳を誉むる所の書」を献上したという。

薄茶の点てかた
茶碗に湯を注いで温め、その中で茶筅(ちゃせん)を回して、湿らせる。
茶碗のお湯を捨て、内側を茶巾(ちゃきん)で拭く。
茶杓(ちゃしゃく)で抹茶を2gほどすくい、茶碗に入れる。
そこへ60~70ccの湯を注ぎ入れる。
茶碗を軽く押さえ、茶筅で手早くかき回す(これを「茶を点てる(たてる)」という)。全体が泡立つまで茶筅を振るかどうかは流派による。
茶碗を左手に乗せて右手を添え、茶碗を軽くまわして正面を避けて茶を飲む。

グリーンティ
一般家庭や小売店の店頭などで供される飲み方で、抹茶と砂糖に湯や牛乳を入れて撹拌し、冷やして飲む。「薄茶糖」(うすちゃとう)や「抹茶ミルク」といった商品名で呼ばれることもある。甘く口当たりが良いので、子どもでも無理なく飲める。
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成分と効能
茶には眠気の除去や利尿作用などさまざまな効能があるが、特に抹茶は茶葉を粉にして飲むため、葉に含まれる栄養素をそのまま摂取することができる。抹茶に含まれる主な成分は次のとおり。

カフェイン
タンニン
ビタミン
ミネラル
アミノ酸・たんぱく質
セルロース
サポニン
カテキン/ポリフェノール類
香気成分(数十から数百種類)
ソワン博士のおすすめ(京都市中京区、一保堂茶舗 )
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 14:05
ハウルの動く城(ハウルのうごくしろ)
ハウルの動く城(ハウルのうごくしろ)はダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー小説を原作とした、宮崎駿監督によるスタジオジブリの長編アニメーション映画もしくは、その作品に出てくる城。2004年11月20日日本公開。英語版のタイトルはHowl's Moving Castle。
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あらすじ
荒地の魔女による魔法で、90歳の老婆にされてしまった帽子屋の娘で18歳のソフィーは、女性の心臓を食らうという魔法使い、ハウルの動く城に入り込む。そこで、火の悪魔であるカルシファーと、カルシファーとハウルの契約を破れば姿を元に戻すという契約を結ぶ。しかし、ハウルに会ってみれば、ただのハンサムで自己中心的で泣き虫な若者。隣国との戦火が激しくなる国で、ハウルは戦うことを強要される。が、ソフィーはハウルを引き止めようとする。ソフィーはだんだん、ハウルに恋心を抱くようになる。

賞歴
公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円を記録。これは日本映画歴代最高のオープニングである。 5月1日までに1500万人を動員。

2004年 - 第61回ベネチア国際映画祭オゼッラ賞受賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 13:34
金平糖(こんぺいとう)
金平糖(こんぺいとう)は、砂糖で作られる 表面に角状の突起による凹凸をもつ直径1cmほどの小球形をしている菓子である。
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表記は金米糖、金餅糖、糖花とも。語源はポルトガル語のコンフェイト(confeito) で、室町時代末期に日本に伝えられた。 特徴的なこの角がなぜ、またいくつ形成されるのかについてはまだ定説がない。

御菓子以外の利用方法
非常食の乾パンの缶には、氷砂糖とともに、しばしば同梱されている。
これは活動に必要なカロリー摂取もさる事ながら、カラフルで楽しげな金平糖を配する事により、非常食が必要と成るような災害時に被るであろうストレスを軽減させる効果が期待されての採用である。同様の理由により、自衛隊の戦闘糧食(レーション)にもこれを含むメニューが見受けられる。
主成分がグラニュー糖であるため、喫茶店などではコーヒーや紅茶用の砂糖の代用としても使用される事がある。
皇室の引き出物として利用されている。
これは引き出物に菓子器が供される際に、中がカラだと体裁が悪いとして、日持ちの長さを買われて採用された。
この小さく奇妙な形の菓子は、様々な色に着色可能である事から、その大きさに関わらず極めて目を引きやすい。加えて高熱で焼き固める事から保存性が良く、湿気さえ気を付ければ2~30年経っても同じ味をしている(ただし伝統的製法に拠る物のみ・一般には賞味期限は1年と設定されている)とすら言われている。喫茶店で客へのサービスとして使用するにせよ、保存性の高さは重要な要素といえよう。

なお一般的に飴玉は夏場などを経て高い室温に晒されたり吸湿すると表面が柔らかくなり、味も損なわれるが、金平糖ではそのような事は無い。

製法
作り方は以下の通り。

氷砂糖に水を加えて煮詰め、蜜をつくる。
回転鍋(その形から銅鑼と呼ばれる。)を熱しながら、金平糖の核となるケシ粒(現在はザラメ糖が用いられることが多い。)を入れる。
ケシ粒に熱い蜜を少量ずつかけ、回転させながら1週間から2週間以上の時間をかけて粒をゆっくり成長させていく。
現在では、色付きやさまざまな味が付いたものも作られている。
ソワン博士のおすすめ(京都左京区、緑寿庵清水)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 11:30
エルサレム(Ιηροσολυμα)
エルサレム(Ιηροσολυμα)は、西部についてはイスラエルが実効支配し、東部についてはイスラエルが占領しているもののパレスチナも領有を主張している内陸都市。ヘブライ語で、ירושלים (イェルシャライィム)、アラビア語ではالقدس (アル・クヅ) という。古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿があった場所である。またイエス・キリストが処刑された地であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地である。都市名のエルサレムとは、ヘブライ語の「イール・オッシャーム(平和の町)」であるという説が主流であったが、現在では「ウル・サレム(サレムの礎)」の意味であるとされている。アラビア語ではアル=クドス。アラビア語名のクドゥスは「神聖、崇拝」を意味する。人口60万人。
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概要
地中海から車で約一時間内陸部に入った小高い丘の上にある。ユダヤ人が住む西エルサレムとアラブ人居住区である東エルサレムから成り立つ。

東エルサレム
ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地。旧市街と呼ばれる。ユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」を訪れる人々は絶えない。壁の上の神殿の丘にはシャロン現首相が2000年に訪問して投石にあったイスラム教の聖地アル=アクサモスクやイスラム建築の傑作岩のドームがあって、これはユダヤ人の神殿をイスラム教徒がモスクに変えたものであり、岩のドームにはムハンマドが旅立ったという伝説があり、地下には最後の審判の日にすべての魂がここに集結してくるとされる「魂の井戸」がある(イスラム教がユダヤ教徒の伝統に従い、ユダヤ教最高の神殿をイスラム教寺院に改造することは、イエス・キリストやムハンマドはユダヤ教徒にも信頼されうる預言者であり、イスラムがユダヤ教を凌駕するものであることを示しており、ここにパレスチナ問題における宗教的側面での問題がある)。旧市街は1981年に世界文化遺産に登録された。

西エルサレム
西側は新市街と呼ばれる近代都市で、首都機能が集まる。イスラエルの政治・文化の中心である。

歴史
前30世紀頃、カナンと呼ばれていたパレスチナにおいて古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。

第二次世界大戦後の1947年、国連案によって都市は旧市街を含む東エルサレムと、西エルサレムに分断された。第一次中東戦争、1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンによって占領されていた東エルサレムは現在イスラエル管理下にある。イスラエルは東エルサレムとの統合を主張している。1980年にイスラエル議会により、エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとされたが、国連ではその決定の無効が決議された。

宗教とエルサレム
エルサレムは単に地理的にパレスチナの要所であるのみならず、アブラハムの宗教にとっての聖地でもある。 ユダヤ教にとっては、エルサレムは古代イスラエル王国の首都であった場所であり、その信仰を集めていたエルサレム神殿が置かれていた場所である。幾つかの神聖とされる場所が残っている。中でも嘆きの壁は有名で、これは70年にローマ帝国がエルサレム神殿を破壊したときに外壁の一部が残されたものである。 キリスト教にとっては、エルサレムはイエス・キリストが教えを述べ、そして処刑され、埋葬された場所である。それらの場所には、現在はそれぞれ教会が建っている。

イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。クルアーンは、マディーナ(メディナ)に居住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちマッカ(メッカ)のカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っている(17章1節)。伝承によると、このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期にはすでにイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル・アクサモスクが建設され、聖なる場所と見なされている。

これらの宗教それぞれにとってエルサレムは重要な都市であるので、エルサレムの帰属の問題はパレスチナ情勢を難しいものとしている一因である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 08:47
ヨハネ・パウロ2世の最後の言葉、公開される
【2005年9月24日】
4月2日に亡くなった前ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世の最期が、バチカンから発行された出版物により明らかになった。それによると教皇の最後の言葉は「私を父の家に行かせてください」だった。

前教皇の死の5ヶ月後、バチカンはヨハネ・パウロ2世についての文書を一冊の本にまとめて発表した。AP通信によれば、バチカンの公式定期刊行物の付録扱いとなっている。この本は、教皇の最後の数週間を扱い、報道機関によれば220ページ、カトリック系ニュースサイトなどによれば223ページ。その中で、教皇が最後に語った言葉が始めて明らかにされた。ヨハネ・パウロ2世はこの言葉を、母語であるポーランド語で語った。カトリック系のニュースサイト「カトリック・ニュースサービス」はこの言葉を祈りだとしている。その6時間後、欧州中央夏時間午後9時37分(UTC+2、日本時間3日午前4時37分)に教皇はバチカンでの住居である教皇宮殿の自室で息を引き取った。午後7時ごろ、教皇は昏睡状態に陥った。前教皇に長年仕えた秘書官の証言によると、この言葉を聞いたのは、教皇の病床に付き添っていた修道女ひとりだった。そのとき、部屋はほとんど暗く、ポーランドの習慣に従って、小さいろうそくが点されていただけだった。

バチカンから今回出版された本では、2005年1月31日から死去までのヨハネ・パウロ2世の病状が記されている。1月31日、前教皇はインフルエンザを理由に謁見を取り消した。これは教皇がすべての謁見を取りやめた最初の日である。この本は、それ以後のヨハネ・パウロ2世の病状を、時系列に沿って取り扱っている。

このような形で教皇の死の詳細がカトリック教会から示されたことは未だかつてなかった。出版の理由として、バチカンのスポークスマンは、教皇庁上層部が憶測を防ぐことを望んだと述べた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-26 08:26 | ★ニュース
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