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ガイウス・ユリウス・カエサル
ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar, 紀元前100年7月13日 - 紀元前44年3月15日)は、古代ローマ(共和政ローマ)の政治家で軍事的指導者。また文筆家としても有名。呼び名に関しては英語読みでジュリアス・シーザー(Julius Caesar)と呼ばれ、シェークスピアによる同名の戯曲がある。またドイツ語にならいツェーザーと読まれることもある。
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ドイツのローマ法学者であるテオドール・モムゼンには、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と称された。

カエサルを描いた作品
『ローマ皇帝伝』(上) (スエトニウス)
『プルターク英雄伝』(プルタルコス)
『ジュリアス・シーザー』(ウィリアム・シェイクスピア)
『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル ルビコン以前』(塩野七生)
『ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後』(塩野七生)
映画
ジュリアス・シーザー(1953年 原作:ウィリアム・シェイクスピア 監督:ジョセフ・L・マンキーウィッツ)
ジュリアス・シーザー(1969年 原作:ウィリアム・シェイクスピア 監督:スチュアート・バージ)

評価
文筆家としてのカエサルは、キケロとともにラテン文学の散文においては双璧をなしている。特に『ガリア戦記』の簡潔な文体は高く評価されている。
軍人としてのカエサルも王制、共和制、帝政を通じて古代ローマ最高かそれに次ぐ才能と手腕の持ち主とされている。
政治家のカエサルに対しては実質ローマ共和国を滅ぼし、帝政へと導いたことから批判する人も少なくない。もっとも、カエサルの生きた共和制最末期のローマにおいては、すでに一部の有力者により元老院の指導体制は崩壊しており、カエサルはいわばその死水を取ったに過ぎないという人も多い。独裁制を反対する人々からはその象徴として嫌われることもあるが、イタリアの生んだ最高の政治家とも言われる。ほぼ間違いなく、ナポレオン・ボナパルトやオリバー・クロムウェルといった独裁者達に影響を与えたと思われるが、現在のいわゆる西洋をローマの版図に組み込んだのはカエサルであることから西洋全体がカエサルの影響を受けているという言い方もできるかもしれない。

主な著作
ガリア戦記
内乱記
反カトー論

生い立ち~政治キャリアのスタート
古代ローマの古くからの名門貴族(パトリキ)であるユリウス氏族に属するカエサル家の子としてローマに生まれる。父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル、母は、アウレリア。父の妹ユリアがガイウス・マリウスに嫁いでいたため幼少の頃より民衆派(ポプラレス)と目されていた。紀元前84年に有力な民衆派のルキウス・コルネリウス・キンナの娘であったコルネリア (Cornelia) と結婚。マリウスやキンナの政敵であるルキウス・コルネリウス・スッラが独裁官になると、スッラはカエサルとコルネリアとの離婚を命じたが、カエサルは従わず、紀元前81年ローマから逃走した。スッラが紀元前78年に逝去すると、ローマに帰還した。コルネリアは紀元前68年に逝去し、その後はスッラの孫であるポンペイア(Pompeia)と結婚した。ポンペイアは裕福だったため、カエサルはその財産を買収や陰謀に使い、政治的なキャリアを積み重ねていった。紀元前65年には高級按察官(aedilis curulis)に就任。紀元前63年には最高神祇官 (pontifex maximus) に就任。紀元前62年には法務官(praetor)に就任した。また、カエサルには多くの愛人がいたが(カエサルには「ハゲの女たらし」という異名がある)、ポンペイアが女装した情夫を引き入れたというスキャンダルの発覚した際には、自らは女装して侵入したクロディウスの弁護を行ないながらも紀元前62年に妻と離婚した。

三頭政治
紀元前60年、執政官をめざすカエサルは、オリエントを平定し凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級(経済界)を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに三頭政治が結成される。民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。

ローマの内乱
カエサルがガリアに遠征していた紀元前53年、三頭政治の一角であるクラッススがパルティア王国攻略中に戦死した。これにより、三頭政治は崩壊し、元老院派に取り込まれたポンペイウスとカエサルとの対立が顕在化する。
紀元前49年カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる元老院最終勧告が発布される。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目にして、軍隊の進入を禁じられていた首都へ軍を向け国家を内乱へと導く。ローマ国境のルビコン川を渡る際、彼は有名な言葉「alea iacta est(賽は投げられた)」を残している。

ルビコン川を越えたカエサルの行動は迅速だった。即日リミニ入城、アドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指した。対するポンペイウスはローマにあったため即時の軍団編成を行なえず、ローマおよびイタリア半島を放棄し自身の勢力地盤であったギリシアに離脱、軍備の再編成を行なった。これによりカエサルはローマの実質的な支配権を手中にした。

その後、スペインにいるポンペイウス派の将軍を倒し、ローマにもどったカエサルは2回目の執政官当選を果し、万全の体制でギリシアのポンペイウスを追撃する。緒戦のドゥラキウムの戦いでは撤退の憂き目にあったものの、ファルサルスの会戦で圧勝。ポンペイウスは逃亡先のアレクサンドリアで殺害される。

終身独裁官~暗殺
紀元前46年、北アフリカにてポンペイウス軍の残党を討ち果し(タプトスの会戦)、その支配権を確固としたカエサルはローマ共和国の改革に着手する。属州民に議席を与えることで元老院への権力集中を防ぎ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化を図り、さらに自らが終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで、統治能力の強化を図ったのである。この権力集中のシステムは元首として、後継者のアウグストゥスに引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎となった。
カエサルへの権力集中に対し危機感を抱いたブルートゥス、カシウスらにより、紀元前44年3月15日カエサルは元老院が開催されていたポンペイウス劇場に隣接する広場にて暗殺された。遺言にて養子のガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)が後継者に指名された。

ブルートゥスに暗殺された際に残した「tu quoque, Brute(ブルータス、お前もか)」という言葉は有名だが、これは後世イギリスのシェークスピア創作の『ジュリアス・シーザー』の台詞であり、スエトニウスでは「我が子よ、お前もか」とされているが、実際には言っていないともいわれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-18 11:50
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