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巨人軍・原辰徳新監督就任を発表
【2005年10月6日】
報道機関各社の10月5日の報道によると、巨人軍は同日、堀内恒夫監督の2005年度限りでの退任と、野球評論家・原辰徳氏の2006年度からの新監督就任を発表した。
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朝日新聞の記事によると、堀内監督は2004年度から3年契約を結んで監督に就任していたが、2005年度シーズンは開幕から一度も勝率5割を超えることが出来ず、チームも5位に低迷した責任を取って辞意を出していたが、巨人軍はシーズン終盤の段階から後任探しを進めていたことから事実上の解任となる。堀内監督は2004年度も3位でリーグ戦を終えているため、結果的に2リーグ制になって以降の歴代の監督7人で唯一優勝経験を持たない監督となった。

後任に就任する原氏は前回、2002年から2003年の2シーズンに渡って指揮を取り、初年度の2002年度には日本選手権シリーズで西武を4連勝で下し日本一に輝くが、2003年度はコーチ人事などを巡るフロントとの対立から辞任しており、2年ぶりの現場復帰となる。

日刊スポーツによると、「巨人軍に対する愛情や情熱、責任の重さを背負い、最高のチームをつくりたい」と意欲を語っている。また巨人軍の監督返り咲きは長嶋茂雄氏以来4人目のことである。

原 辰徳
原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市生まれ、神奈川県厚木市、同・相模原市出身の元プロ野球選手・監督。愛称は「若大将」。あるいは「タツ」「平成の若大将」とも言う。現役時代は内野手、外野手(レフト)。「爽やか」という形容詞が最も似合う野球選手である。所謂「ポストON世代」の筆頭。

高校時代からアイドルとして大変な人気があった。巨人の中心打者として期待され実力も高かったが、ポスト王の期待を背負わされたのは気の毒であった。一流の成績を残しながら王貞治や長嶋茂雄と比較されてしまうため、巨人の4番を務めた選手にしては大した選手ではなかったかのように言われてしまう事が多いのである。

背番号
選手
8(1981年 - 1995年)
監督・コーチ
80(1999年 - 2001年)
83(2002年 - 2003年)

その他
現役時代(~85年)の応援歌は背番号にちなんで「エイトマン」の主題歌だった。
明治のプリンのCMに出演していた(ルーキーイヤーの年)。そのときのCMソングは「ハラハラ、ドッキリ、きがきでナーイ、あーあー、食べてしまいたい♪」
スバル360と同じ1958年生まれだったため、現役時代には富士重工業のイメージキャラクターに使われていたことがあり、スバル・レオーネのCMにも出演していた。
公式戦でベンチに野手が残っているにもかかわらず、代打で投手の桑田真澄を出した稀有な監督。しかもその桑田がつなぎ、試合に勝利した。
現在TBSラジオでパーソナリティー番組「原辰徳のいきいきトーク」(土曜17時から17時15分 東京地区のみ)担当。

来歴
父は福岡県立三池工業高等学校、東海大学付属相模高等学校、東海大学の野球部監督であった原貢氏。
私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白河小学校、厚木市立緑が丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校を経て、昭和49年東海大相模高校に入学。
東海大相模高時代の1974年の夏、1976年の夏と2度全国高等学校野球選手権大会に出場。
東海大学に進学(遠藤一彦は先輩、高野光は後輩に当たる)。東海大学はまだ発足したばかりの首都大学野球連盟に加盟していたが、東海大学の試合はファンが大挙して押しかけ、同連盟史上初の連日満員となる盛況をもたらした。
1980年 ドラフトにおいて、読売ジャイアンツの新監督に就任したばかりの藤田元司が1位クジを引き当て、相思相愛が実り巨人に入団。
1981年 1年目から三塁手としてレギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。
1983年 打点王獲得。
1986年9月24日 対広島東洋カープ戦で津田恒実投手の直球をファールした際に左手首を骨折。
1989年 他の選手起用の関係で外野手に転向。
1992年 再び内野手に転向。
1993年 このころからアキレス腱などのけがに悩まされ、アキレス腱の痛みが引退の原因となった。
1995年 現役引退。同年、球団一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を永久欠番にとの署名が多く集まり、読売ジャイアンツは「準永久欠番」に制定。以後、背番号8は生え抜きの選手のみに着用が許される番号となった。(その後を継いだのは仁志敏久)
1999年 巨人のヘッドコーチに就任し球界復帰。
2001年 その年限りで勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督となる。合言葉は「ジャイアンツ愛」。
2002年 桑田真澄の先発復帰、清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い選手もそれによく応え、就任1年目にして圧倒的な強さで日本一に導いた。
2003年 チームの4番打者であった松井秀喜のニューヨーク・ヤンキース移籍、投手陣の崩壊など成績が低迷(3位)。阪神の独走を許し、当時の三山秀昭球団代表との確執もありわずか2年で監督を辞任(後任は堀内恒夫)。読売ジャイアンツ特別顧問に転任した。
2005年 チームの成績不振により堀内恒夫監督が辞任。次期監督として、2006年から再び指揮を執ることが決定した。
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by dcb0322 | 2005-10-06 10:11 | ★ニュース
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