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司馬 遼太郎(しば りょうたろう)
司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年8月7日-1996年2月12日) は、大阪府大阪市出身の小説家である。歴史小説を専攻。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。幼少時代を奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)で過ごす。ペンネームは、「司馬遷に遼(はるか)に及ばず」と言う謙遜の意味である。日本の大衆文学の巨匠、中心とされている作家。
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概要
歴史小説家としてはスコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における史記列伝の形式を範にした作家であるということができる。

特徴としては、つねに登場人物や主人公に対して好意的であり、作家が好意を持てる人物しか取りあげない。そのことによって、主人公に対して作者の持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長して、ストーリーのなかに読者を巻きこんでゆくという手法をとることがきわめて多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を的確に素描し、ややつきはなした、客観的な描写によってかわいたユーモアや、余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本語による歴史小説の伝統のなかではきわめて異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。

高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したのも司馬の大きな功績であり、それまで所謂史伝ものか、荒唐無稽な講談風の歴史小説しか存在しなかった社会にあって、歴とした知識人が上質な娯楽として読むに足る程度の高い歴史小説を書いたことは特筆に価するだろう。ただしその実証性の高さによって、彼の小説が小説作品としての枠を超え、歴史書としての批判にさらされていることも事実である。新しい視点と斬新な描写で「司馬史観」と呼ばれる歴史観をも作るほどの影響を与えた国民的作家である。

特徴
司馬の歴史観を考えるうえで逸することができない問題は合理主義への信頼である。第二次大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右両極の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈し切取ろうとする発想、はすべて司馬の否定するところであり、当然のことながら、こうしたものの対極にある近代合理主義の体現者こそが、司馬の愛する人物であった。『燃えよ剣』において、最後まで尊王と佐幕の思想的対立に悩みつづけた近藤勇ではなく、徹底して有能な実務家であった土方歳三をとりあげ、『翔ぶが如く』において、維新以降ファナティックなものへと傾斜する西郷隆盛よりも、大久保利通や川路利良に好意的な描写が多いのは、こうした理由によるものであろう。ただし、そうした近代合理主義の尊重が、司馬の小説や史観に一定の限界を与えていたこともまた事実である。

晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、日本軍の杜撰な計画のために歴史的大敗を喫したこの事件には、司馬にとって描くべき対象となる人物が本質的に存在せず、その意味でこの小説が着手されずにおわったことは司馬を象徴するできごとであるといってもいい。

作品リスト
小説
項羽と劉邦-秦~漢、項羽、劉邦
義経-平安時代、源義経
妖怪-室町時代、6代将軍の落胤という熊野の源四郎を通し 応仁の乱前夜の京の風雲を描く
箱根の坂-室町時代、北条早雲
国盗り物語-戦国時代、斎藤道三、織田信長
新史太閤記-安土桃山時代、豊臣秀吉
尻啖え孫市-安土桃山時代、雑賀鉄砲衆を率い織田信長に抗した雑賀孫市を描く
播磨灘物語-安土桃山時代、黒田孝高(黒田官兵衛)
覇王の家-安土桃山時代、徳川家康
功名が辻-安土桃山時代、土佐藩の藩祖山内一豊と賢夫人として名高い、妻の千代を描く
夏草の賦-安土桃山時代、長宗我部元親
梟の城-安土桃山時代、豊臣秀吉暗殺の命を師より受けた伊賀忍者・葛篭重蔵を描く。直木賞受賞作品。
豊臣家の人々-安土桃山時代、豊臣秀吉の家族を描いた連作短編
関ヶ原-関ヶ原の戦い、石田三成
風神の門-桃山時代~江戸時代初期、霧隠才蔵
城塞-江戸時代、大阪冬の陣、大阪夏の陣を描く
戦雲の夢-江戸時代、長宗我部盛親
韃靼疾風録-明末、清の勃興を1日本人桂庄助の目を通して描く
大盗禅師-由比正雪、鄭成功。大濤禅師の幕府転覆・明帝国再興の企みを、主人公浦安仙八を中心に描く幻想小説。
風の武士-江戸時代、伊賀同心の末裔、柘植信吾を主人公にした伝奇小説
十一番目の志士-幕末、架空の勤王の志士、天堂晋助を通して幕末を描く
竜馬がゆく-幕末、坂本竜馬(坂本龍馬)
花神-幕末~明治維新、大村益次郎
菜の花の沖-江戸時代末期、高田屋嘉兵衛
世に棲む日日-幕末、吉田松陰、高杉晋作
燃えよ剣-幕末~明治維新、土方歳三
新選組血風録-幕末、新選組を描いた連作短編
峠-幕末~明治維新、河井継之助
胡蝶の夢-幕末、松本良順
最後の将軍-幕末、徳川慶喜
俄 浪花遊侠伝-幕末の侠客、明石屋万吉の視線より大阪庶民からの幕末を描く
喧嘩草雲-江戸時代の画家、田崎草雲の奇妙な人生を描いた短編。
酔って候-幕末、山内容堂、島津久光、伊達宗城、鍋島閑叟の幕末の四大大名を描いた短編小説
歳月 - 幕末~明治維新、江藤新平
翔ぶが如く-明治維新、西郷隆盛、大久保利通
坂の上の雲-秋山好古、秋山真之、正岡子規の3人を主人公に、勃興期の明治国家を描く長篇。
殉死-日露戦争で武勲を挙げたが明治の終焉とともに自殺した、乃木希典を描く。

エッセイ
街道をゆく
空海の風景 - 空海
「明治」という国家
「昭和」という国家
この国のかたち
風塵抄
16の話 - エッセイ集。

略歴
1923年 大阪府大阪市に生まれる。
1930年 大阪市立難波塩草尋常小学校入学。
1936年 私立上宮中学校(現在の上宮高等学校)へ進学。
1940年 上宮中を卒業。
1941年 大阪外国語学校蒙古語科入学。
1943年 学徒出陣のため大阪外国語学校を卒業。兵庫県加古郡(現在の加古川市)にあった戦車第19連隊に入営。
1944年 満州の戦車第1連隊に配属される。
1945年 本土防衛のための戦車第1連隊士官として栃木県佐野市に配属され終戦を迎える。
1946年 新日本新聞に入社。京都支社に配属となる。
1948年 2月に新日本新聞倒産。5月産業経済新聞社入社、京都支局に配属となる。
1950年 最初の結婚。同年の金閣寺放火事件では住職等から犯行の動機をすっぱ抜く。
1952年 長男誕生。
1954年 離婚。長男は福田家の祖父母に預けられる。
1956年 大阪本社勤務の傍ら短編小説『ペルシャの幻術師』を講談社の懸賞に募集。第8回講談倶楽部賞を受賞し文壇にデビューする。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。
1959年 松島みどりと結婚。
1960年 『梟の城』にて第42回直木賞受賞。
1961年 産経新聞社退社。執筆活動に専念する。
1964年 現在、司馬遼太郎記念館のある大阪府布施市下小阪(現在の東大阪市下小阪)に転居。
1966年 『竜馬がゆく』『国盗り物語』にて第14回菊池寛賞受賞。
1972年 『世に棲む日日』で第6回吉川英治文学賞受賞。
1976年 『空海の風景』などで第32回芸術院恩賜賞受賞など、数々の賞を受賞。
1981年 日本芸術院会員となる。
1988年 『韃靼疾風録』で第15回大佛次郎賞受賞。
1991年 文化功労者に選ばれる。
1993年 文化勲章受章。授章式が行なわれた皇居で、徳仁に「トイレは何処ですか」と尋ねる。皇太子に便所の場所を尋ねた人は、恐らく司馬以外に存在しないとも言われている。
1996年2月12日腹部大動脈瘤破裂のため国立大阪病院にて死去。享年72。忌日は生前好きだった菜の花に因み「菜の花忌」と呼ばれる。
1996年3月4日東大阪市名誉市民となる。
1996年11月1日(財)司馬遼太郎記念財団発足。
1998年より、毎年菜の花忌に司馬遼太郎賞を贈賞。
2001年11月1日司馬遼太郎記念館がオープン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by dcb0322 | 2005-09-22 18:57
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